光の色を生きる

たましいは光だと言われたりする。光の色を足し続けると、白になる。向こう側に旅立った人たちが着る色だったり、スピリチュアルな色としても白が使われる。私たちのたましいは、光の要素なんだろう。
逆に、絵の具の色は、足し続けるとどんどん黒っぽく暗くなっていく。明るくしようと明るい色を足しても、重くなる。
光の色は自ら発光していて、絵の具の色は光を反射することによって眼に映るという違いが、この二つの色にはある。光が無ければ、絵の具の色を認識することが出来ない。
たましいが自ら発光する光だとしたら、人生を重ねることは、絵の具の色を重ねていくことに他ならない。思い出が、経験が、感情が重ねられることによって、人生が灰色になり、結局は何をしても色を失ったグレーな景色が続いていくことになってしまう。絵の具の色は、光の色に変化することは出来ない。ただ、重ねてきた絵を手放すことで、内側の光の輝きが取り戻される。これが一般的に言われる、浄化、癒しというもの。
重ねてきた人生の絵の具が、手放され失なわれることでしかスピリチュアルな輝きは出てこない。私は、灰色な人生になんとか輝きを加えようとして、不自然な輝きを身にまとっている人たちをたくさん見てきている。例えば、地位や権力などのステータス、正しさ、宗教の教え、スピリットガイド、ハイな状態などは不自然な輝きを放ち、グレーな人生の目隠しに使われる。
スピリチュアルは体験されればされるほどより深まって意識が広がる。光の色のように、輝きの足し算だ。絵の具の色は引き算のように、重ねるほどに輝きが減っていく。
最初に光あれという言葉が思い出される。スピリチュアルなたましいがあり、その光に反射されて、人生が浮かび上がる。そもそも光が無ければ、人生も存在しない。そんなイメージだ。光が反射して眼に映る映像の中に生きていた人が、自らが発光する光だと気がつき、光を生きる時は、覚醒と呼ばれたりする。