わたしたちは、馴染みのある文化や価値観に、心地よくしばられている

(恋愛感情抜きで、)こんな人の、こんなところが好きだ! と感じる時。
(自分自身の)こんなところが好きだ! と言っているのと同じように見える。
もりもりと意欲的に生活する力がある人が好きだと言う時、そんな生活力がすでにあるか、目指している自分が好きなのだろう。
伝統や文化を大切にしている人が好きだと言う時、きっと自分も同じものを大切に思っている。
他人への感情や判断は、結局は自分の中の「わたしの何か」を映し出したものに過ぎない。
逆に、好きじゃない人や抵抗が起こる人に対しては、「わたしの何か」の否定が投影されている。
そんな人を非難することで、「わたし」という存在範囲を守ろうとしているのだ。
「わたし」の要素は認めて、それ以外は排除。
好きな感情にしても、嫌いな感情にしても、「わたし」を正当性を主張していることになる。
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わたしたちは、馴染みのある文化や価値観に、心地よく縛られている。
知っている感覚と分かっているシステムで囲みこむと、「わたし」は守られる。
自分が認めている部分だけで作られた「わたし」は、その小さな世界に行きようとする。
多人種国家として物理的に共存はしているけど、異文化を認め、受け入れる寛容さが無い国や地域はたくさんある。それぞれのコミュニティー文化の中で培われた価値観を守ろうとすればするほど、その価値観に縛られて、異文化の排除につながる。
価値観や文化は、「わたし」ではないけど、「わたし」を続けるためには固執する必要があるという幻を作り出す。
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今、人種、人権問題で揺れ動いている。
一人一人の心の中に、それぞれの「わたし」がいて、それぞれが小さな「わたし」を守ろうと必死になっている。誰でも、価値観をひっくり返すことには恐怖を感じるし、伴う痛みを避けたいと思っている。
と同時に、殻をやぶるチャンスでもある。個人が、それまでの心地よく縛られた状態から自由になる時。
今まで、自分のどこを認め、拒否して生きてきたのか、振り返る。
どんな人間関係を作り、求めてきたのか? 周りを見渡してみると、答えが見えてくる。好きな人。拒否してきた人の傾向。
そこから自由になると、条件に合わなくても、イケてなくても、変わっていても、それでいいよと自分自身を認められるというご褒美がついてくる。
価値観や文化の違いを超えたところにある、人と人のつながりを目指すことは、小さな「わたし」の殻をやぶること。
世界、周りで起こっていることは、自分自身を映し出しているって言われるのは、自己責任をとがめるためじゃない。
わたしはどんな人間なのか。どんな人生を行きているのか。そんなことを知るため。
それからやっと、向かいたい方向にかじをとれるんじゃないか。グーグルマップの現在点にリセットする感じで。
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