魔法のプライム会員

ルアンパバーンの朝市。合理的なモダンライフは見当たらない

アマゾンプライムデーはとっくに終わりましたが、何かお得なお買い物はできましたか。わたしは何も買わなかったのですが、何通もお知らせメールが届いたりしたので、のぞいてはみました。

現在、アマゾン会員は、国ごとのアカウントを作る必要があります。日本とアメリカでは会員ですが、シンガポールではアカウントを作っていません。普段の買い物はレッドマートで間に合っています。

アメリカでプライム会員になって、十数年。アマゾンが使えなくなる生活は考えられないほど依存しています。

国外にいても、クリックひとつで、アメリカに住む家族に荷物を送れる便利さ。アメリカに戻った時は、限られた滞在期間のなかで、効率よく買い物を済ませられる。

アマゾンに生活を支えてもらっていると言っていいんじゃないか。でも、私一人が、サービスを使わなくなったとしても、会社にとって痛くも痒くもないわけで、一方的な依存ということになります。

例えば、近所の小さなスーパーで買い物する時は、共存だと思うんですね。スーパーも地元の人に頼り、地元の人もスーパーに頼っている。お互いがそのことを意識しながら、生活を成り立たせているわけです。

アマゾンと私との関係は、それに比べると、一方的な支配なことがよくわかる。生活が支えられているだけじゃない。複雑なのは、「楽に」生活が支えられるということ。欲があっという間に満たされるという、甘汁を味わってしまったことで、私の中の何かが、怠けてしまっている。

アマゾンにとって変われた私の部分って、なんだったんだろう。周囲と共存して生活を成り立たせる力だったり、生活の中の工夫や創造性か。

葉っぱに包まれた焼き餅らしきおやつ。エコでもある

アマゾンの便利さと合理性が、「直ぐに」「楽に」という欲を通して、あっという間に生活を支配してしまったことに、びっくりしている。その犠牲になっているのが、自身がもともと持っている生活を成り立たせる力だとしたら、欲を満たしたい衝動って、どれだけ?と。わたしってどれだけ欲深くて、欲に操られた存在なんだろうと。

だからといって、サービスをやめる気があるのかといえば、ない。でも、これが長く続いてほしいかと言えば、それも違う感じがする。

便利や合理性は、確かに楽だけど、味気ない。心が疲労する。そして、生きている感覚につながりにくい。自身の生命力を使えば使うほど、生きている感覚が増えるけど、便利なサービスを使えば使うほど、何かが物足りない感覚が増えていく。その足りない感覚を埋めるために、サービスを使う、という循環におちいる。

実際に、最近のわたしは、わざわざ、とか、面倒臭い件に取り組みたくなる気持ちが湧いてきたりする。編み物やキャンプの自炊のことをぼーっと考えたり。(どっちもやらないけどね)自力でなにかしてみたいのは、合理性に疲れているからなのかも。でも、もし編み物やキャンプするとしたら、道具はアマゾンでポチるの? 本末転倒?

合理性と生命力のはざまで、欲と心が試されている。

関連記事

Leave a Reply

%d bloggers like this: