瞑想に依存しているのか?

外出規制中は、家でじっとしている時間が増えて、それまでの無意識な行動に気がつくことが増えた。

出来なくても構わないこともあるし、無い方がかえって良いと思えることもあった。

我慢する必要がある件も出てきた。

我慢するくらい、求める気持ちが強いってこと。

普段の何気な行動も、押さえつけられると、衝動的に求める気持ちが高まっていく感じがしてくる。

ヨガの後、スタジオ近くにあるカフェでランチをするのが楽しみだった。

あのカフェに行くのを我慢している感じがする。

その気持ちを観察してみると、カフェでランチすることだけを求めているんじゃない。

ヨガの後の良い気分を味わいながらカフェに向かい、心地よい脱力感と一緒にランチをして、少しの達成感と一緒に帰宅するという一連の体験を求めていることに気がつく。

ある行動は、単独の存在ではなく、他の環境とつながりあって存在している。

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我慢しているいつくかの行動は、依存を意味するのか?という疑問が出てきた。

「あったらいいな」がいつの間にか、「無いと困る」不安に変わったり、「絶対欲しい」衝動に変わってしまったのか。

不安になると食べたくなるチョコや、霊的干渉があると欲しくなるアルコールへの衝動は、自覚がある。

衝動が起こっても内側で情報処理しきれない時に、食べたり飲んだりして気を紛らわしたくなる。

不安や霊障といった動機に直接働きかけると、衝動は消えてなくなる。

そこに気がつかない時、飲食という行動に依存することで、一時的にバランスを保とうとする。

だとしたら、我慢しているヨガ&ランチは、依存なの? 

未消化な感情や抑えている思いがどこかに隠されているのか?

そんなこと言ったら、わたしが毎日必要な瞑想やヨガは全部依存ということになってしまうよ。

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わたしの中の欲求や衝動と行動を観察してみたら、見た目は同じでも、質の違う2つのパターンに分かれることに気がついた。

一方は、行動の後にすっきりして、程よい充実感の余韻が残るもの。

わたし自身が増える感覚。

英語で言うと、エンパワーメントかな。

行動自体は、地味め。

もう一方は、行動中の刺激が強いけど、どちらかと言うと後味の悪さが残るもの。

わたし自身がすり減る感覚。

依存対象にわたしを譲ってしまった敗北感にも近く、「落ち込んだ時」の中毒症状も強い。

行動自体のテンションが高め。

これが、健康的な関係性と依存との違いだと思う。(生きるために空気や食べ物などに依存していますが、ここで言う依存は、不健康な関係性の意味です。)

わたしが増えるのか、減るのか。

同じ行動でも、質に注目するとどちらなのかが分かる。

食事中の快感が強くて、食後は「あーあ、食べちゃった。」なのか。

人と集まった後に残るのは、充実感なのか、疲労感なのか。

スピリチュアル系に関わる時も、同じく。

本来の自分が増えている充実感なのか、それともスピリチュアルエゴと恐怖心なのか。

衝動と行動を眺めて、依存をあぶり出す。

依存は、独立した行動じゃなくて、環境や精神、感情と深く結びついている。

だから、依存を克服したかったら、自分を育てるホリスティックでも書いたみたいに、行動だけを消すんじゃなくて、依存していない自分を育てることが必要になってくる。

チョコを取り上げるんじゃなくて、チョコを思い浮かぶ感情やきっかけ、衝動に気づく。

発散したいこころの裏を解放して、チョコレートで発散しなくてもいい自分になっていくこと。

無駄にネットやSNSに費やす時間が長いのかを探って、無しでも安定した精神状態を保てる自分になっていくこと。

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依存は、明らかに周囲に迷惑をかけるもの、本人が辛い思いをするものばかりじゃない。

けど、生活から排除してみると、生まれ変わったようにすっきりすることばかり。

エネルギーを消耗させる元を断ち切ると、自由に使えるエネルギーが戻ってくる。

約3ヶ月ぶりにスタジオでヨガレッスンを受けてから、カフェでお気に入りのサンドイッチを食べた。

心身とも元気になった。

この元気は今日の残りから明日にかけて、じわじわと効いていく。

そう、これこれ。

自分のエネルギーは「クラッシュ」(落ち込み)することがない、サステイナブルなエネルギー。

ご機嫌だけが増えていく。

2020-06-26|
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