太ももの筋肉が弱くて、できないヨガアサナが多い。
夫にそんなことを話したら、じゃぁ、太ももだけきたえればいいじゃんと言った。
ん〜。それじゃぁ、ヨガじゃなくて、筋トレになっちゃうんだよ。
ヨガでは、太ももだけ鍛えるということは無い。
足腰と、背骨と胸と、さらには呼吸、体全体が一緒になってアサナで、その一部が太ももなのだ。太ももだけ切り離して関わることはしない。
全体性なのだよ。
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太ももと下腹部にエネルギーが伝わっていないのはよくわかった。そのメカニズムを探りながら、毎日プラクティスを続ける。
ある日、前屈していたら、足首が目に入った。「??」 足首が内側に倒れているのに気がつく。わたしはへん平足。足裏のアーチを支えきれないで、倒れている。その足首をまっすぐに戻したら、股関節までピキーンとエネルギーが通った。
これだ〜。
それまでの「太もも問題」へ一歩踏み込んだ瞬間。
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太ももは独立した存在じゃなくて、つま先から足裏、足首から膝、腰から背骨、、、、と永遠につながっている全体の中の一部として表現されている。だから「太もも問題」に働きかけることは、体全体に働きかけることでもある。
太ももは、とっかかりというか、入り口のようなものに過ぎない。そこからは、展開されている複雑な関係性に飛び込んで、わたしというエッセンスでつなぎなおしていく作業になる。
そう、取り扱っているのは、わたし全体であって、切り取られた体の一部ではない。
物ごとの関係性を包括的に捉える力。見る力。全体から切り離すことはできないと知る練習。
毎回の食事も、何気なく目にするネット情報も、家族との会話も、今日の気分も、仕事も、わたしという全体の一部だ。
どれかが独立して存在しているように感じたとしたら、そう見えるだけの幻想だと言える。
手っ取り早く「太もも問題」だけ解消すればいいじゃんと思うかもしれない。そんな時は、入り口の向こう側に横たわる、複雑に入り組んだ「事情」を拒否している場合が多い。
物ごとを独立させて存在させることの理由は、これ。全体像にアクセスしないことで、より複雑な「事情」を避けることが出来る。
ホリスティックなアプローチは、たましいレベルのエネルギーは必要とされるけど、合理的じゃない場合も多い。見てみないフリが合理的に感じたりする。
ただ、これを続けると、わたしというエッセンスを分割しつづけることになり、文字通り「バラバラ」になっていく。
太ももだけを鍛えても、体全体をめぐるわたしのエッセンスを体験できない。
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「太もも問題」に取り掛かると、足首が見つかり、次は足裏が見つかり、、、と、ホリスティックアプローチに終わりはない。ヨガに終わりがないように。人生に答えがないように。
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