意識という光を当てて輪郭をなぞる作業

神社やお寺に行くことに対して否定的な人はほとんどいないのに、サイキックやスピリチュアルヒーリングに対しての偏見は多いんだよな、と。
サイキックとヒーリングまで行かなくても、ヨガや瞑想だって偏見はまだある。私にも心あたりがある。スピリチュアルとは縁がなかった20年以上も前の話。学生の頃からの友人の結婚相手が、毎朝ヨガと瞑想をする話を聞いて、心底心配した。私の友人は、そんな怪しい人と結婚していて、安全なんだろうか?と。それから20年以上経った後の現在の私は、毎日ヨガと瞑想しかしていないけど、その頃よりもずっとずっと幸せだから安心してと、当時の私を安心させてあげたい。
話を元に戻して。神社とかお寺にお参りに行くことは、どこかパワースポットに行くのと似ていて、夢心地状態を作り出すのではないか。現実を忘れさせてくれる場所。非日常。この世ではない、あの世をなんとなく感じさせてくれる。でも、そこに自分は直接関わっていないという、途中で、真ん中に漂っている心地よさ。
サイキックとかヒーリングは、同じように目の見えない世界に見えて、全く違う。大きな違いは、自分自身が、直接、がっつり関わりあっているという状態。ぼんやりとした、なんとなくの無意識に、意識という光を当てて輪郭をなぞる作業。つぶっている目を大きく開けて、人生という景色を目に映す作業。
社会、周囲の人、家族、常識がサイキックやヒーリングのスピリチュアルプラクティスに対しての偏見は、恐れからくる。変化への恐れ。解放への恐れ。自由への恐れ。スピリチュアルプラクティスしている人の話を聞いたり、サイキックに通う人に出会うと、ほとんどの人の内側では強烈な恐れが起こる。無意識レベルでの警戒アラームが激しく鳴り響く。この人は、私の安全を脅かす存在なの?
それぞれが持つ恐れの奥には、それぞれの苦痛が存在する。あなたが、私が変化を起こす時、あの人の、その人の心の奥の苦痛が共鳴して、揺さぶられる。この人は、私の安定を壊して、苦痛を思い出させる人なの?
スピリチュアルヒーリングは、可能性であると同時に、恐怖でもある。ココロの奥のその奥まで響いていくから。他人事のフリはできないから。スピリチュアルヒーリングは、遠くから眺めて楽しむお守りじゃなくて、人生の中に飛び込むために繰り返し使われ、試されるもの。観客席から降りて、実際にプレーする楽しみを教えてくれる。