鬼子母神なわたし

娘との旅が終わって自宅に戻る。

みっちり濃かった道中を振り返って、消化したいと立ち止まる。

振り返りたいことがたくさんあるはずで、思い出してゆっくり噛みしめたい件がたくさんあるはずだから、と。

静かに座ってみたら、何も出てこない。

ノートに向かっても、言葉が出てこない。

内側には未消化な想いと出来事が山のように積まれているのに、アウトプットされることを拒否している。

まだ、出したくないんだ。

消化とアウトプットを恐れる私。

表現、アウトプットは、自分の外に出すこと。

自分の中から消えていくことも意味する。

それが全てではないけれど。

だから、口に出したらスッキリしたりする。

娘(18才)との今回の旅は、子離れへの第一歩のような旅だった。

これから巣立っていく娘の道が現実として見えたし、母親としての役割の激変を実感した。

旅の思い出を言葉に変換すると、娘が自分の中から出て遠くへ行ってしまうと感じているみたいだ。

思い出を清算しなければ、彼女はまだまだ私の中に留まることになる。

母親部分の私は、一歩先に進むことを拒んでいる。

頭で、娘の独り立ちを応援したいと考え、心でそうなって欲しいと願いながら。

子供や相手を飲み込む母なる力。

鬼子母神。

またはカーリー。

無理強いしても、上辺だけの言葉しか出てこない。

本音と断ち切れている違和感しか残らない。

安心して言葉が出てくるまで、待つことにする。

鬼子母神はその後どうなるんだっけ。

2019-08-07|Tags:
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