鬼子母神なわたし

メルボルン セントポール大聖堂

シンガポールの自宅に戻ったので、みっちりと濃かったトラベルと移動を振り返って、消化したいと立ち止まる。振り返りたいことがたくさんあるはずで、思い出してゆっくり噛みしめたい件がたくさんあるはずだから、と。

静かに座ってみたら、何も出てこない。ノートに向かっても、言葉が出てこない。内側には未消化な思いと出来事が山のように積まれているのに、アウトプットされることを拒否している。

まだ、出したくないんだ。消化とアウトプットを恐れている。

表現、アウトプットは、自分の外に出すこと。自分の中から消えていくことも意味する。それが全てではないけれど。だから、口に出したらスッキリしたり、表現して解放が得られたりする。

今回の娘と一緒のトラベルは、子離れへの第一歩のような旅だった。これから巣立っていく娘の道が現実として見えたし、母親としての役割の激変を実感した。

旅の思い出を言葉に変換すると、娘が自分の中から出て遠くへ行ってしまうと感じているよう。思い出を清算しなければ、彼女はまだまだ私の中に留まることになる。母親部分の私は、一歩先に進むことを拒んでいる。子供や相手を飲み込むこんな母なる力は、鬼子母神やカーリーにつながっているんじゃない?

無理強いしても、上辺だけの言葉しか出てこない。本音と断ち切れている違和感しか残らない。安心して言葉が出てくるまで、待つことにする。鬼子母神はその後どうなるんだっけ。

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