神話から目覚める。ラオス・ルアンパバーン

高台から見える王宮博物館

朝8時を過ぎるともう生暖かくなってくる。少しでも涼しいうちにと、午前中に市内を見渡せる高台に登ったけど、歩き出した途端に汗が吹き出す。東南アジアの旅は、いつも暑さと湿気との戦い。

お寺にもなっている高台からの眺めは楽しくて、遠回りして登りきったことに後から気がついた事も、まぁいいかと思える。

目の前に、古い宮殿で、今は博物館の建物が見える。行きより遥かに楽な道を下って、この王宮博物館に入ってみる。

期待なしが良かったのか、中に入って感動した。手ぶらで入場、写真も禁止されているのが残念なほど豪華な内装。

建物真ん中に位置する広い王室の間の壁一面が、ガラスのモザイク柄で埋め尽くされている。

他の寺院で見られるような、神話や宗教観を物語るレリーフが、全部ガラスモザイクで作られている。圧倒。

ターコイズ、群青色、カラシ色がメインでまとめられて、キラキラ華やかだけれど、派手じゃない品の良さが、東南アジアっぽくない落ち着きを出している。このガラスは、日本製だと書かれていた。

昔ばなしの絵本を眺めている気分になる。多くの人が、戦っているか、神官に手を合わせている。象、鳥、馬、サル、魚。メコン川。草木、花。

当時の様子と神話が混じり合う物語を眺める。

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物語は、語る人によって切り口が変わる。

ここに描かれた物語は、国王から見た世界。いわゆる、国の1番上から見下ろした世界観になる。

神話も混じっていて、現実との境目が曖昧な部分が多そうだけど、このような物語は、民族意識の深い所で共用される神話として機能しているのだと感じる。

言葉にならないレベルで、民族のアイデンティティにつながっているってこと。

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神話はいつも上から下に伝わる。

神や時の支配者目線の物語は、それ以外の人の目線と同じではない。

そして神話は、追い求めるべき理想や”それ以外の人たち”への規制にも使われる。そこにその人達の物語は反映されていない。

現実から頭1つも2つも飛び出した人達が作り出した神話は、言葉通り”この世のもの”ではなくて、美しく見えて当然だ。

違う次元で作り出された物語に、(しかも違う時代とか) 今の自分を当てはめることに、何の意味がある? 当てはめること自体が、最初から無理な話ってことだよ。

私は、今この時代に生きる人の、等身大の物語に興味があるらしい。

少数民族が染め上げた藍の織物。いのちが詰まっている。

大地が育んだ植物とその恵みで生きる人たち。織る人の手。その向こうに見える生活と景色。柄に込められた意味と思い。

”  その他の人たち ” の物語は、分かりやすく残されてこなかった。今までは。

ネットで個人の物語が発信しやすい時代で、ずいぶんと” その他の人たち ”の物語が広まりやすくなって来たんじゃないかと思う。

その中で、神話の役割はどう変わっていくんだろう。神話から自由なった時、私たちはどんな世界を見たいんだろう。

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