見守る力

 

自分の中で気になることがあったり、心当たりがあったり、追ってみたい課題が見つかった時に、寝かせてみながら、どう発展、発酵していくのか見守るのは楽しい作業と同時に、忍耐力が試されたりもする。

自分の中で芽生えた何かは、内側のいろいろな部分を巻き込んで、発展していく。見る夢もタロットも街で眼に映る光景も本から飛び込んでくる言葉も巻き込んで、だんだんと形を作るようになる。意識が、形になってきた何かを、言葉や理解で確認できるようになる間、私はしばらくその発展や発酵が起きるための場になることに徹底していると感じる。

形にならないあやうい何かが、その力と勢いを得て表現されるまで、じっと見守る観察者。こう言うと、何だか他人事のように聞こえるけど、肝心な何かは内側で起こっているにもかかわらず、それでも観察者としての距離を置きながら、安全にオーガニックに発達する場を確保し続けるためには、それなりの自覚が必要になる。

何かわからないものを内側に抱えるのは、不快に感じることが多い。だから、何とか早く理論で解決させてスッキリしたくなってしまう。不快が、不安に通じてしまうことも、余計に解決策を探して先走ってしまう理由になる。

さなぎがチョウになるのを急がせられないように、内側で発生する成長を伴った課題なようなものは、オーガニックに発達していく必要がある。

子供の成長も似ている。

子供は常に成長している。その成長は、大人から見ると、不必要に見える過程も多いし、どこに進んでいるのかわからないように見えることも多い。でも、あくまでも、大人から見ると、という視点だ。その子供が課題を抱えているとしたら、どうだろう。日々の成長に加えて、課題を抱えるわけで、本人の居心地の悪さはさらに増える。周りにいる大人として、子供の居心地の悪さをなるべく早くなくしてしまいたいと思うのが、大多数だろう。

そんな時、課題を抱える子供に対して、その課題がオーガニックに発展&発酵して形になるのを見守れる大人がいると、子供は安心して成長できるんじゃないかと思う。手をだして、解決してしまうのは簡単かも知れない。でも、その解決方法は、本当にその子のためなんだろうか?実際は、その大人のための解決法という場合が多いと思う。大人が手を貸す時、口をはさむ時、子供のためを思ってという裏で、本当は成長という居心地の悪さに大人の自分がたえられないからだ。

自分の成長、子供の成長共に、居心地は悪い。精神的な成長痛って言うんだろうか。でも、自分でゆっくり羽を乾かしながら伸ばす場所を与えられることで、羽ばたく力はつく。そして、みんなその力は持っている。成長を遂げて力を使えるようになるかならないかは、力がつくまで、辛抱強く見守ってくれる存在があったか、なかったかの違いに思える。

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