距離感とリアル感のゆがみ

ウイルス対策で外出規制や街が閉鎖されるようになって、今まで知っている生活とだいぶ様子が違ってきている。

テレビやネットでウイルスのニュースを目にするたびに、違和感を感じていた。何だろう?この違和感は。

「これまで」は、ネットやテレビで目にする光景は、どこか遠くの国の出来事で、他人事だった。地球のどこか、誰かに起こっている現実だという理解はあっても、自分自身の現実ではなくて、適度な距離があった。

ニュース以外でも、ネットで目にする情報と動画は、アクセスしているからつながっている世界なわけで、自分と情報源との間には、安心できる距離があった。

どこか映画を見ているような、フィクションであって、バーチャルな世界。自分が傷つくことがない、安全な世界。

「これまで」の情報との距離感は、バーチャル的な位置だったように感じる。

それと同時に、身近な人間関係と状況には、ココロと頭を麻痺させて、無関心を決めていることが多い。リアルな現実は、刺激が強くて、ココロが傷つき、理不尽さが横行している。リアルは、人間を生きることでもある。

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ここ最近、クオモニューヨーク知事のコロナウイルスブリーフィングを見るのが日課になった。彼のコミュニケーション術に感心させられ、言葉に励まされ、現状を学んでいる。

「これまで」だったら、クオモ知事の会見はどこか遠い現実のはずだけど、今は、「ウイルスの脅威に晒されている世界に住む」自分自身の現実と一致している。

これが違和感の正体だった。

遠い現実の、私とは安全な距離感を保って存在しているはずの出来事が、実際にここにある違和感。シンガポールも、先週からほぼ封鎖状態になり、外出自粛が始まっている。

感覚的には、時差ぼけに近い、かも。

今朝はワイキキビーチを歩いていたのに、夜には東京の繁華街を歩いている不思議さ。自分の中で流れている時間と空間が、歪んだりねじれている感覚。

目の前にあるはずのない現実が展開されている。

それと同時に、人との物理的距離を開けることによって、普段いるはずの人が身の周りにいない現実。

身近な社会との隔たりと疎外感を感じているのに、精神的には、今まで体験したことないほど、大きな世界とのつながりを感じざるを得ないギャップ。大きな世界は、あくまでも観念でしかないのに。

イメージでしかなかった現実逃避や、バーチャルに捉えていたネットやスクリーンの世界が、リアルな世界に登場してしまい、

共存してるのに、ココロが無関心を決めてた物理的状態との距離が、実際に作り出されている感じか。

裏と表が逆転したような感覚。距離感とリアル感の感覚にゆがみが起きている。

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私のこの説明は、実際の感覚の3パーセントも表現していない。

でも、そこがポイントなんじゃなくて、距離感とリアル感がゆがんでいる今という時期がとても貴重な時間なんじゃないかってことがポイント。

世界観ががっつり固まっている時は、変化は起こりにくい。でも、歪みが起こっている今は、リアルの定義がシフトして、個人レベルでも普段は不可能だと思ってることとか、考えもしなかったことが、可能になったりする。

「元の状態に戻る」ことを求めるのは、意味がないと思う。バラバラになったレゴのピースで、元の形状に戻すことはできる。でも、せっかくだから、新しい形を作り出すのはどう?

元に戻ってしまったら、今の経験を生かせないってことよ?

学んだ経験と智慧を生かすためには、次に進まなくちゃならない。

何を作りたいのか、どうやって作り出すのか? 問いもたくさん問いかけることになる。元の状態に戻りたいって言う時、もう一つ自分に聞きたいのは、

元の状態って、そんなに良かったの?幸せだったの?満足してたの?

ってこと。パラダイムシフトが起こる時は、もっと充実した自分を自由に描けるチャンスだったりする。

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