ヨガの帰り道、バスを待ってたら、降り始めた雨が強くなってきた。
バス停で雨宿りしながら、道路に叩きつける雨粒をぼーっと眺める。
雨の景色が好き。
物心着いた頃からある感覚。
雨の降り始めの音。暗い空から落ちてくる雨粒。なんとなく静かな空気。
でも、最近気がついたのは、好きなのは雨じゃなかったってこと。
雨が降ると、行動が制限される。
外に出られない。屋外活動が中止になる。
雨が理由になってできないことが出てくる。
できることも雨だとなんとなく自粛される雰囲気がある。
雨が作り出す「元気に活動しなくてもいい雰囲気」が好きなんだ。
その逆で、空が高く晴れ渡った日には気分が沈んだり。
長年不可解だったけど、雨の日のワクワク感の謎が解けたら、晴れの日の重い気分も説明がついた。
コロナ禍での移動中、シンガポールでホテル隔離2週間を経験した。
ホテルの部屋で、誰にも合わずに2週間。
オンラインセッションとヨガ以外は、何もすることがない時間。
それは、言い方を変えれば、何もしなくてもいいよという許可だったりする。
家での日常と旅行中は、どんなに時間があったとしても、やることはある。
やらなくちゃならないという心は出てくる。
それが、隔離中は免状を手にしたかのように、「やらなくてもいい」許可があった。
それは、雨の日の「活動しなくてもいい雰囲気」の比じゃなかった。
そんなことを感じたのは私だけかと思っていたら、そうでもなかった。
隔離を体験した人の話を聞いたら、同じように、「しなくちゃならない」の解放区を満喫した人が結構いた。
何時に寝起きしてもいい。食事も支給されるから、作らなくてもいい。(少しくらい美味しくなくても、作らなくてもいいから、文句無し)子供がゲーム漬けでも平気。
食事を作らないことが、子供がゲーム漬けなのが、良いと言っているわけではない。
そうゆう状態に対して、頭の中で批判的な声が聞こえたり、精神的な負担を感じないことが楽なのだ。
わたしは、普段は連続ドラマも小説も、止まらなくなるから手を出さない。
日常は、細切れ雑務の連続で、長時間どっぷり浸ることが難しいけど、隔離中は、時間を遮るものが何もない。
Netflixで、「GoodPlace」を3日間で見終わった。
(シーズン4(52エピソード)あるドラマ)
2週間の完全な解放区を体験してみて、普段は環境と心境からの「やらなくちゃならない」プレッシャーに多くさらさレてるんだなー、と。
私たちの日常は、やっても批判。やらなくても罪悪感。という勝ち目のないゲームをしていることが多い。
だとしたら。
自由になるには、ゲームそのものを放棄するしかない。
ワクチン接種が進んで、少しづつ活動再開の空気が漂い始めた。
と同時に、以前のハイスピードで過剰な生活に戻ることへの緊張感を感じる。
一年以上の「自粛と隔離」を経て、それまで無意識に参加していたゲームがなんとなく見えて くる。
そのゲームとは。ハイスピード。過剰。物質主義。分断。特権。
知らないうちに取り込まれていた価値観。
てか、この価値観はベビーブーマーである私が生まれた時にはすでにあった。
加速する価値観に置いてきぼりを取らないように、少しづつ足を早めながら、最終的に全速力で走り続けていた。
絶対にたどり着くことの出来ない「ゴール」を目指して。
そのことが身に沁みたきっかけがコロナ禍なのだと思う。
毎日の生活が解放区になればいい。
自身とのつながりが強まればいい。
循環とは。共存とは。
社会と文化、他人が作り上げたゲームを勝ち進んでも、本当の充実感は得られない。
自ら作り出したゲームは成長につながり、充実感が得られる。
これが、自分の道を歩くということではないか。
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