目で聞き、ココロで受け取る

シンガポールに来てから、じっくり向き合い、話を聞いてくれるドクターに会うことが多いと感じている。アポの時間が長いとか、私の方を向いているとかの物理的な要素以外にも、エネルギー的な部分で、私とのコミュニケーションの為に居てくれているんだと感じられる。そうすると、私は安心するし、ココロが少しづつ開いて、言葉も多く出てくるようになる。
相手が自分の為にそこに存在しているのかを、人は敏感に感じ取る。言葉や態度は優しくても、心あらずに事務的に診察を終わらせるドクターもいるように。自分が、ついでや、重要度低といったメッセージを送られるのは、淋しい。コミュニケーションが一方通行で、キャッチボールになっていないから。こちらが投げたボールを受け取ろうとしてくれるのがわかって、やっと安心して投げられるようになる。相手がこちらを向いているのかいないのかは、サイキックじゃなくてもわかること。
人とコミュニケーションをとる時に、自分の100パーセントでそこに存在しているか。スマホ片手やテレビを横目で見ながら、仕事をしながら話を続けられるよりも、手を止めて、体全体で話を受け止めてくれたら、自分の話は、言葉は、そして自分自身は価値があるのだと、肯定されるはず。小学生の頃に、話している人の方を見て、目で聞きなさいと教えられていたのは、今になって大切なことなんだとわかる。
もちろん忙しい日常では、毎回そんなことはできないかもしれない。その中でも、大切だと思っている家族に対して、コミュニケーションの質が意識されないことは多いと思う。
子供の為に何か出来ることがあるのかと聞かれる時、私は、子供の為にそこに居てあげること、と答えることが多い。仕事をしないで家にいるという意味ではない。子供と一緒にいる時は、ながらや、ついでをしないで、一緒にいること。話を始めるかもしれないし、何も言わないで向こうへ行ってしまうかもしれないけど、それでもいい。自分が忙しい時に、子供が話したかったら、(出来る範囲で)全てを後回しにして聞く耳になること。子供が成長するにつれて、本人が解決しなければならない問題や課題が増え、親として何もできない件が出てくるけど、そんな時でも、耳を傾け、ココロを開き、子供を肯定するメッセージを送り続けることはできる。具体的なアドバイスを与えるのとは違う。自分の為に、相手がそこに居てくれるとわかるのは、たとえ何もしてなくても、大きなココロの支えになる。