変わり続ける存在価値

価値は絶対的ではなく相対的で、状況や相手によって変わるもの。
それを知っていると、もっと楽になれる。
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スプーンを必要としている時、スプーンの価値は高くて、ナイフの価値は低い。
会社勤めには、通勤用の車、服や化粧品に価値があるけど、在宅勤務なら、座り心地の良い椅子と快適なWIFIの方が価値がある。
人の存在価値の変化も同じく、
子供の成長過程で親の存在価値は変化するし
健康器具やサプリメント市場の、消費者としての価値は、学生よりも40代の方が高い
英語しか話せないグループで日本旅行中、一人だけ日本語が話せる人がいたら、その人の語学価値は高いけど、英語圏に旅行している時は、意味がない。
物だけじゃなくて、個人の存在価値も、人生の道のりによって変化し続けます。需要がある状況にいれば、価値は上がって、そうでなければ、価値は低い。社会から求められる状況にいるか、いないか、それだけです。
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社会で作り出される存在価値は、その限定した社会との関係性に定義された自分です。自分という意味を作り出している社会がなくなれば、そこにいる意味が消えてしまうものです。
例えばウイルス問題を抱える今、置かれている社会的立場と環境が変わり、人間関係が変わった結果、寂しさや混乱を抱えている人が多いのは、
社会的立場から作り出されれる存在価値だけに、人としての意味を依存していることで、
私って誰?
と、自分を見失ってしまっているからだと思われます。
(そして、新しい価値を見出すのにも良い時期です。)
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価値 = 自分 だと錯覚しやすい。だから、価値がなくなると、自分が何者なのか分からなくなったり、存在理由を疑ったりします。
これは、自然なココロの作用です。感情が湧き上がるように、意味がなくなると、何者なのか混乱します。
自ら定義する「存在価値」は、いろいろあります。成果や結果を出すこと。人に必要とされること。役割を果たすこと。
そして本来相対的で、流動的な意味と価値なのに、自分の存在が消えないように、これらの価値を追いかけ、それまでの意味にしがみつくのは苦しいものです。
価値 = 自分 ではないと知っていれば、
一生懸命価値にしがみつく必要はないし、意味を求めたりしなくてすみます。
価値とは、あくまで社会的関係性と流動性の中で生まれ、消えていく定義。人間関係や状況の中で、価値と意味はあっという間に変わってしまう、儚い存在です。
それを知りながら、環境と関係性の中に幸せを感じたり、物事に意味と価値を見出すことで、ココロが満たされていく経験をすることは、
自分という人間を知るための過程です。
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自分にとって、何が大切なんだろう。何に価値と意味を見出しているんだろう。
見つけた価値と意味は、イコール自分の存在価値ではなく、タマシイの向かう方向を示すベクトルのようなもの。
答えではなく、ヒント。目的ではなく、手段。
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