非日常の中の日常

飛行機の窓から富士山

カリフォルニア→日本と滞在して、約3ヶ月ぶりのシンガポール。指定ホテルで2週間の隔離を終えた。

この3ヶ月間は非日常の連続だった。コロナ禍の中、国をまたいでの移動。各国の入国対策に合わせた検査と必要書類、隔離などの準備に追われた。滞在場所で求められる行動が少しづつ違うものの、感染しないように緊張しているのはどこでも同じだった。

そんな非現実的な日々の中で、「いつも通り」な活動が、心、体、精神面の、軸をブラさないための大きな支えになっていた。

まず、ヨガ。幸いなことに、スタジオに通っていたヨガレッスンは、外出規制が終わってからも、オンラインで受けられる。移動中に何より大切な体調管理にヨガは不可欠なので、続けることに。ブロック2つ、ボルスター、ベルトとマットという大荷物を持ち歩いた。ヨガで体がほぐれるのと同じくらい、いつもの先生とレッスンできる安心感で、こころもほぐれる。

そして食事。外食しにくい状況も重なって、できるかぎり自炊。カリフォルニアでも毎日米を炊き、ここでも一人用炊飯器を持ち込んでいる。特別な美味しいごちそうは、こころが踊る。でも、非日常の連続では、地味めな「いつものご飯」がとりわけ落ち着く。

瞑想。自分とのつながりを取り戻す時間。移動しながら、驚くほど変わってしまった状況を目の当たりにした。空港も、それぞれの街も、人の行動も。変化のスピードに追いつけていない自分に戸惑い、目の前の景色の向こうにある人々の生活に心苦しくなりながら、その都度自分の中心に向かってリセットボタンを押し続ける。

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そんなことを考えていたら、陰陽マークの太陰太極図というものが頭に浮かぶ。黒と白の魚?がくっついて、丸になってる、あれ。よく見ると、黒の中に白い点が、白の中に黒い点がある。

非日常の中の日常と、日常の中の非日常に見えなくもない。

もちろんこれは本来の意味は全く別の解釈だけど。

どちらも少しの対極を含みながら存在している。片方だけでは存在していない。というか、できない、ということなのでは?

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非日常な移動を支えていたのは、「いつものやつ」だった。ふわふわと環境に漂いながらも戻る足場のようなもの。

長い移動が終わってまた日常にもどる。

そういえば、日常の中の非日常ってなんだろう? 

とっさに思い浮かばない。

今までは、人との交流、イベント、旅行etc. だったけど、コロナでそれも変わってしまった。これまでとは違う日常の中の「非日常」が求められている。

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大きく見れば、今私が過ごす毎日は、コロナ禍という非日常。その中に生活という「いつものやつ」が入り込んでいる。その中に「移動」という「非日常」が入り込んだ。

でも。

すでにコロナ禍という非日常が日常に逆転し、置き換えられてきている。もう以前の日常には後戻りできないみたい。だったら、新しい日常を支える新たな「非日常」は何? 片方だけでは存在できないなら、新しい「非日常」も浮かび上がってきているはずだけど。

まだ形成されていないのかな? だったら今は、自分らしいそれを作り出せるいいチャンスだったりするのか。

とここまで考えて、ふと立ち止まる。

これまで私たちの「非日常」は、メディアや文化から受け渡された価値観だったのではないかと。成長しつづけること。ポジティブに前を向き続けるのが良しとされる価値観。

そもそも失われた非日常を他の何かで代用しようという考え自体が、合理主義そのものじゃないか?

太陰太極図が自然の法則を示しているとしたら、それは人間の努力云々以前に存在していることになる。

ネガのように逆転し、マトリョーシカのように入れ子になった太陰太極図。曼荼羅に見えなくもない。そんな壮大な宇宙の法則を相手に、私が何を作り出せるわけがない。私はその一部なんだから。

そうすると、日常の中の非日常は、まだ見えてないけど、もう作り出されているんじゃないかって気がしてくる。

非日常の形成は私の仕事じゃないと手放したら、開けてきた視野。自分の中で輪郭が浮き上がってくるその時を楽しみに、日常を繰り返す。

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